60 清水囃子のけいこ
幕末に始った清水ばやしは今もつづいていますが、練習がなかなか大変でした。
農家がひまなのは冬ですから、どうしても練習は寒さが身にしみる時期になります。場所は清水神社の境内にある公会堂でした。少し前の大正はじめには、橋場の観音堂で教わったこともありました。太鼓などもしばらくここにあったそうです。
多摩湖底に沈んだ宅部にも鈴木流という、違ったおはやしがありましたが、移転後は現在の高円寺流を共に継承して守ってきました。
練習には、丸太に荒縄をぐるぐる巻きつけて太鼓に見たてて、数人が並んで、テレツク、テレツクと拍子に合せて打つのですが、昔の公会堂は窓ガラスもこわれ、すきまだらけのゆかからは冷たい風が吹き込んで、蒲(がま)を敷いただけでは、いても立ってもいられない感じでした。それでも寒げいこなどと言って、火も満足に入れずにがんばりました。
養成中は新しい太鼓をたたかせてくれませんでしたから、始めて打つときははり切ったものです。中途でやめていく人もありましたが、熱心な先輩がたに従って、みるみる上達していきます。毎日寒げいこがつづいて、清水神社の夜の森に笛や太鼓の音がひびきました。練習のあと、用心のため火鉢に水をかけて消すので、灰かぐらが立ちます。あくる日、けいこをつけてもらう若い衆が、ひと足先に行ってこれを掃除することが日課でした。冷たい作業も、黙々と、誰からともなくやりました。
戦後の昭和二十八年に、しばらく途絶えていたおはやしを始めることになりました。この練習のおかげで清水ばやしが今に残ることができたのです。この時始めてミセスの女性が参加しましたが、つづけることができませんでした。
戦後二度目の養成は昭和四十九年頃で、この時は踊りや笛も太鼓と共にパートに分けてやりました。社務所も新しく建て直しが済んでいました。昔と違って環境も良くなり、先生が先に行って準備をして待つという時代になりました。この時、原初雄さんという方が太鼓のための譜を作ったのが画期的なことでした。丸太をたたく方法は、巻いた縄の塵が散ってまわりが汚れるので、古タイヤをたたくことを考えだしました。もっとも古タイヤが必ずしもぐあいが良いとも言えず、丸太に逆もどりをする場面もありました。
一昨年が三回目で、女の子が五人参加して太鼓を習得しました。踊りはおとなが担当し、一番難しいと言われている笛はベテランの二人のほか練習中の若手が控えているのが現状です。あちこちの祭に招かれたりする昔と違って腕前を披露する場も少く、支えてゆく陰の力は大変なものでしょう。それでも時には、施設の慰問や老人の集い、市の催しなどに招かれて賑やかに、なつかしい音をひびかせることもあるそうです。(p133~134)